わたしのこと

本当は誰もが自分の可能性を自分の中に持っている

ものすごい本に出逢ってしまった。

というか、自分が投げた問いがブーメランのように返ってきて、答えを連れてきたという感じだった。

この1年悶々としていたことに、突然ブレイクスルーが起きてしまった気がする。

あぁ、私「自分」ではじめたいんだ、って腑に落ちた。
(そういえば、今年はじめにもらった本も、「自分で『始めた』女たち」だった…)

自分が本当にワクワクすることからはじめたい、のだ。

またこれは別記事で書くけれど、今、アート思考のイベントと講座をつくっていて。

「アート思考」はもちろん、それを掘り下げるうちに出逢った「デザイン思考」も「ビジョン思考」もすべて、その名前を知らないだけで、自分が知ってることだった。

言葉が生まれてはじめて概念が生じる。

けれど、言葉がないからといって、それが存在しないわけではない。

それが自分の中にアイテムとして存在するなら、それでいいじゃないか。

後押ししてくれたのは、2冊の本と、アート思考という考え方だった。

「地平線を追いかけて満員電車を降りてみた 自分と向き合う物語」

教育メディアのライター仲間から、たまたま担当編集の人のnoteの記事が送られてきて。

「打ち合わせなどの途中に水を差す形にはなっちゃいますが…
心が震えた記事であり、書籍だったので、皆さんにシェアさせてください…」

その記事を読んで思わず本屋に…!

だったらカッコいいんだけど、そうではなく、自分がイベントづくりでどんづまって答えを探しに本屋に行ったときに、ふと思い返して一緒にその本も探してみた、というのが現実。

でも、記事を読んだ瞬間、即レスで「買う。」と打ち込み、スマホにメモったのは本当。

かの有名な写真家であり、映画監督である紀里谷和明さんの小説だ。

noteの記事を見たときは、なんだか読む側にも覚悟が必要な気がして、ものすんごい難しい本だと思ったのけれど、読み始めてしまえば一瞬だった。

後半、スタバで読み切ったときには、ぽかーんとしてしまって。

でも、いや、もうはじめないといけない、今すぐだ、、という焦りのようでいて、希望のようなものに包まれたことだけは覚えている。

自分の語彙力がなくて悔しいけれど、いい本だった。

取り上げたいところはたくさんある、、、

たくさんあるけれど、3つだけ場面を切り取って紹介。

【支配人】あなたは今、線引きをされた。ポルノは下品、宗教画は高尚という線引きを。

【茉莉】でも実際そうじゃないですか?その二つって対局にあるものでしょう?

【支配人】本当にそうでしょうか?そもそも、何が下品で、何が高尚なのか、誰が決められるのですか?それ以前に「ポルノ」「宗教画」「ファッション写真」というような、いわゆるジャンルわけという線引き自体が必要なのでしょうか?

【茉莉】え?普通必要じゃないですか?そういうジャンル分けがなかったら、世の中わけわかんなくなっちゃうと思いますよ?

【支配人】どうして、わけがわからなくなってはいけないのでしょう?

【茉莉】え?だってわけがわからないと、何かと困ると思いますけど・・・。

【支配人】もちろん、線を引くことによって「わかりやすくなる」というメリットはあると思います。
しかし本来であれば、芸術とは何の線引きもなく、自由で、おおらかで、人々にさまざまな新しい視点、考え、価値観の可能性を提示するカオスなものです。
それなのに、いつのころからか、いつのころからか、その可能性の追求よりも、どうやってお金を生み出すのか?という商業側の考えが強くなり、「わけのわからないもの」だとお金を生みにくいために、「業界」というわかりやすい区切りができてしまった。

【支配人】人は往々にして、わがままという言葉にネガティブなイメージを持ちがちです。いや、子どものころに「わがままはダメだ」と教え込まれている。
だから、自分がほんとうに喜べることにフタをして、人の目を気にして、まわりの人間と同じようなことをする。
誰もそんなことに喜びを感じていないのに。

【茉莉】でも、みんなが自分の好き勝手に行動したら、この社会は成り立たないですよ!

【支配人】果たしてそうでしょうか?もちろん人を傷つけてしまう行動は考えものです。
しかし、「自分の心が欲しがっているもの」に耳を傾けて行動することの何がいけないのでしょうか?
これもあなたの勝手な思い込みではありませんか?

なんてことだ……。こんな簡単なことだったのか?
俺が探していたものは、ほんとうに俺の中にあったんだ。
(略)
俺は自分を否定していたんだ。こんなものは古い、今は流行らない、人に認められるものを、今流行っているものを、今売れるものを、俺が有名になれるものを、そんなくだらないものを追いかけて、自分の心を一番動かしてくれるものを否定していたんだ。
俺はただ、自分がもっとも感動するものを、写真の中で表現すればいいだけだったのに……。

すごくわかる。「わかりやすい」という刷り込みがどれほど強いものか。

そして、芸術の自由さを、現代の経済が押し留めてしまっているようなところも。

これは、私が直島という場所に惹かれた理由の一つでもあるので、とても響いた。

そして、誰もが好きなことをやっても生きていける、と私も思っている。

好きなことは、自分のアンテナが知っている、ということも。

陳腐な言葉になってしまうけれど、この本はすごく面白い、でも、変わらざるをえなくなると言う意味では読むのに覚悟がいるかもしれない。

でも、本気で前に進もうとしている人がいたら、ぜひ買って手渡ししたいと思える本だった。

「やりたいことをやるために、好きなものを好きだと言うために、僕らは生まれてきたんだ。」

はてなブログで有名だった「いばや通信」が書籍化されていて、たまたま本屋で手に取った。

簡単に言うと・・・ホームレスになったのに、そんな自分を明らかにして旅をするうちに、多くの人が彼と出逢うことを望み、最後には熱海に家を手に入れ、人気ブログは書籍になったという話。

でもお決まりのフレーズ、「人生は続く。」なので、これはまだ多分話の途中。

なかなかパンチの効いた人なのだが、紡ぎ出す文章がこれまた哲学的で、本質的で。

ボリュームが結構多いので、ブログは全部読めなかったけれど、すごく読み応えのある文章だった。

ここでも書籍から気になった言葉をピックアップ。

日本では「我を通す」ことはダメだと思われることが多い。そのため、多かれ少なかれ誰しもが何かしらの我慢をしながら生きている。
(略)
こんな書き方は極論かもしれないけれど、私は「誰もが自己中心的であることに努めれば、意外と、世界は勝手に調和を保つようにできているのではないだろうか」と思う。少なくとも、誰もが我慢をすることで保たれる調和があるならば、自分は「そんな調和なんていらない」と思うタイプの人間だ。

「自分が好きなことだけをやって生きるのなんて無理だよ」などと頻繁に耳にするが、みんな嫌いなことだけをやって生きているのだとしたら「嫌いなことをやっていても生きていける」訳だから、好きなことをやって生きるのなんて実は超絶余裕なんじゃないだろうか、と私は常に思っている。

悩みを覚える時は「一般的な誰かと自分を比べてしまっている時」だと思う。誰もが当たり前にできることを、自分だけはうまくやることができないと感じる瞬間はつらい。自分のことをダメな人間だと思ってしまうこともあるし、自分が無価値に思えることもある。
が、ないものを嘆いていてもはじまらない。重要なことは「自分にあるものを思い出す」ことだと思う。与えられているものを生かすということ。誰の中にも力はある。ただ、それを出していないだけなのだと思う。

いろいろな人がいろいろなことを言うからこそ、迷い、恐れ、不安などの感情が生まれる。でも、静けさを取り戻すことができればきっとわかる。
自分の内側のずっと奥の方にある声は、決して「お前はダメだ」みたいなことは言わない。
(略)
やりたいことをやる、言いたいことを言う、会いたい人に会う。
これ以上に優先するべき事柄はあるだろうか。
理想の日々は「今日も生きた」と思いながら毎晩眠りにつくことであり、死ぬ間際、「私は生きた」と思いながら、遊び疲れた子供が眠りに落ちるように、自分の人生に静かに幕を下ろすことだ。

生きていれば腹が減るように、心も腹が減る。
心は「感動」を食べて生きる。
(略)
日常的に感動を味わうために、一番手っ取り早い方法が「自分が感動したもののように、自分自身が生きること」だ。
漫画の主人公に憧れたなら、漫画の主人公のように生きる。ロックミュージシャンに憧れたなら、ロックミュージシャンのように生きる。
感動したものと自分自身を切り離すのではなく、感動したものを、自分の内部に取り入れる。
感動そのものになる。
感動そのものを生きる。
感動したものの素晴らしさを、自分を使って体現する。
さすれば、毎日はドラマだ。

仕事をしていて思う。

心の底から感動したことのない人は、絶対に誰かを本気で感動させることはできない。

感動は自分基準でするものだからこそ、受け取った人は、それをまた誰かに伝えたいと思うんじゃないだろうか。

感動は、自分の中に同じようなものがあるからこそ、響き合う。

いばやさんは、何だかスナフキンみたいで、所有していないからこそ、すごく豊かなのだ。

美しいものを自分だけのものにしなくても、それがありのままであることに美しさを感じられるというか。

「誰も、あなたの代わりに『あなたの命を生きる』ことはできない」

聞き古したようなフレーズかもしれないけれど、いばやさんが言うならそんな言葉も尊い。

まったく違う人生なのに、辿り着く場所は似ている

全然違う生き方をしている二人だ。

たまたま、私が同じ時期に著書に出会ったというだけ。

ただ、どちらもこのコロナ禍の、人々が深く自分に向き合うことを求められた時期に発行されているのは、偶然ではないような気がする。

 

二人とも、何もかもを失い、底知れぬ孤独と向き合い、比較論や経済のまやかしに気づき、自然の美しさに我に返り(しかもどちらにも月が登場する)、本当の自分らしさとはすでにあるものであり、誰もが好きなことをやっても生きていけると語っている。

そして、最後に人生を「遊園地」「テーマパーク」に例えているのも印象的だった。

 

わたしは全くそんな波乱万丈の経験なんてしていないけれど、でも、同じようなことは日常の断片でいつも感じてきたように思う。

そして、私はシャスタ山で出逢ったリチャードにも同じようなことを言われている。

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真実は一つではないと思う。

けれど、私が信じる「真実」のようなものは、そちら側にあるように思う。

本当はこちらもそちらもないけれど。

世界がまるごと「自分ごと」になったらきっと

去年の4月にマーケティングチームに配属になって、ずっと違和感があった。

こんなに楽しくない仕事が存在するんだって気づかされた。

いや、実際に携わっていることは好き、だけれど、そのチームをまとう雰囲気がどうしても好きになれない・・・。

本来の自分の居場所と違うと、こうも違和感なのか・・・。

自分はどんどん人間としての豊かさを失っていないだろうか・・・。

 

ロジックが、数字が、過去のデータが、客観的にー。

そんな言葉ばかりが飛び交うことがすごく嫌だった。

実際に存在しない「誰か」のために働くのって楽しいのだろうか。

過去のデータを突き詰めた世界に、「私」は存在しているのだろうか?

それを仕事にしている人たちは、それを突き詰めた先の世界に自分の幸せはあるんだろうか?

それこそ、AIが台頭する社会に、そんなロジカルだけの人間は必要だろうか?

自分の人生に、数字しか物差しがなかったら、それは豊かだと言えるのだろうか?

 

自分の直感を信じられなくなったら終わりだと思った。

自己肯定感が下がって、どんどん自分の可能性が閉じていくのがわかった。

コップの中のノミのようになっていたかもしれない。

ダメだと言われ続けると、もう次はやらなくていいと思う、どうせできない、と。

 

自分の内発的動機、意味、挑戦する気持ちがどんどんなくなってゆく。

自分で決められなくなっていく気がする。

目に見えない誰かの答えを探して、見えない空気で答えを決めるなんて、虚しすぎる。

 

やりたいことを現実化していくために、データを活用する、というのは理解できる。

でもやることを決めるときに、それありきになってしまうのは違うと思う。

内発的にこれはやる…!と思える力がないと、それは絶対に価値にならない気がした。

 

「わかりやすさ」を追求した結果が、文脈を無視した世界になっている気がした。

ミーティングを何度もやっているのに、みんなあまりにも理解度が低いのが不思議で仕方なかった。

なんのためにやっているか、みんな全く覚えていないのだ。

そして、手がけたものたちが世に出るころには興味がない・・・。

 

でも、やっと腑に落ちた気がした。

「自分ごと」じゃないからだ。

わかった気になっているだけで、実際は考えてもいなければ、何もわかっていない。

そんな商品が誰かを幸せにできるんだろうか?

メリットだけをうたうプロダクトが、誰かの人生のきっかけになれるんだろうか?

マーケティングはそんなもん、と言われてしまうだろうか。

それとも、その考え方は1マーケターの意見だろと思われるだろうか。

 

でも、この現実は、まさかの大手教育会社で起こっているできごとなのだ。

こんな人材を育てている会社が、教育業に関わっているなんて怖すぎると思った。

教育って、その人の可能性を信じられること、じゃないのか。

 

なんとなくだけれど、旅好きな人、素直な人、臨機応変に動ける人が好きだった。

私は、結局、自分の人生を「自分ごと」にしている人が好きなのだと思った。

そして、そういう生き方の方が、世界はずっと美しく見える気がした。

 

最初にも書いたけれど、自分に投げかけた問いが、一周回って自分に投げ返された気がしていて、そしてそのサイクルは確実に早くなっている気がしている。

わたしをこの世界から引っ張り出そうとする力が働いてるとしか思えないくらい、どんどん波打ち際に押し出されてゆくのだ。

あぁこれはたぶん、壮大なる実験。

選択と集中じゃない。大切なものがわかったら、あとは「捨てる」だ。

人間はそんなに多くのものを大切にすることはできない。